一人ワニナレナニワ
ガンバがナビスコ決勝で埼スタに来たので、ふらっと行ってきた。
どうせテレビで応援するなら、現地で見た方が面白いし、家でグダグダしてるより気晴らしに外に出た方がマシだ。
さらに、牛丼屋に行くようなノリでスタジアムに通えるようになれば、日常の中にサッカーを取り込むことができるようになるし、激務と課題地獄によって失われたQOL(クオリティオブライフ)も回復できるのではないか。
また、場合によっては、スタジアムに仕事を持ち込んでも、普段と違う環境で仕事をすることで、脳の変な部分が活性化して、インスピレーションが湧き、なんらかのイノベーションが生まれるようなこともあるかもしれない。
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というわけで、ガンバを応援に一人サッカー観戦してきた。
最寄りが目黒なので、一本だ。
しかも二回席の指定で2500円。2000円の席もあったし、こんなに安いならもっと早くから行っておくべきだったし、皆んなももっと行った方が人生豊かになるんじゃないかと思う。
一人映画とか一人焼肉は余裕だけど、一人サッカー観戦はどうかなと思ったが、全然いけるじゃないですか、ということで、これからもちょいちょい居酒屋に行くようなノリで遊びに行こうと思う。
だだ、やっぱ埼スタはちょっと遠かったし駅からも歩くので、等々力とか味スタ?とか、横浜とかそのへん。
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というか、仮にも、決勝戦で、36000人は寂しい。
Jリーグと電通は今年から5年契約しているようだが、http://www.j-league.or.jp/release/000/00005560.html、
代表のミーハーな感じはもういらないから、もっとJリーグを盛り上げるべきだ(ナビスコは契約外だとしても)。
いや、正しくは、盛り上げるべきターゲットを間違っている。
たぶん、訴求するセグメンテーションが違う気がする。
ライトユーザーを取り込んで、一時的に熱狂させたところで、すぐに飽きて離れていく(それこそなでしこブームのように)。
狙うべきは、かつてサッカーを愛したけれど、今は何らかの理由でスタジアムに足を運ばなくなってしまった層だ。
かつての優良消費者に、再びサッカーの面白さを再認識させ、戻ってきてもらうことだ。
消費者(サッカーファン)は案外、電通的なプロモーション戦略の浅はかさに気がついている。
一過性の本質の伴わないマーケティングの弊害が、サッカー界に悪影響を及ぼしているような気がしてならない。
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試合について、ガンバ、同郷ということもあり遠藤、岩下なんかの動きをよく見ていた。
岩下は、相変わらず、PKのシーンなんか(天敵)西村さんとの相性が悪い感じで、苛立っていた様子。
失点の場面でも1ゴール1アシスト。
ただ、風貌、歩き方、熱いハートと、ちゃんと前園、城、松井、田原豊らへんの正統派鹿実チンピラ魂を引き継いでいて安心した。
岩下は自分の二個下で、高校の時は甲子園球児のような爽やか坊主イケメンだったイメージだが、ドンドン尖っていき、鹿児島ボッケもんっぷりを炸裂させているあたりも頼もしい。
そして、何より、フィードが素晴らしい。
的確な散らしでガンバのビルドアップを支えている。
どうなんだろう、プレーの荒さとポジショニングの雑さを改善できれば、代表でもやっていけるのでは。
むしろ、ああいう熱いディフェンスリーダータイプが、今代表に必要なのではないか。
塩谷、水本よりは見てみたい気がする。
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なにはともあれ、まずは埼スタで一冠。
フラグは立っている。
一人一人の小さなワニナレナニワも、元気玉のように大きな力となり、やがて繋がり、シーズンの終わりには、フィールド上に大団円を描くであろう。
瞬間と永遠
いつの日にかみんなどこかへ消えてしまう気がする
- ブランキージェットシティ 水色-
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人生って何なんだろうなぁと思う。
今回のW杯は、梅雨と夏の真ん中で溺れて、不思議な夢をみているかのようだった。
王国は崩壊し、滅亡していった。
かつてのローマや、アテナイのように。
神々しさすら感じられる、完璧な敗北であった。
それは、ギリシャ神話のように、悲劇であった。
悲劇を超えて惨劇とも形容されている。
それは大きなカタルシスとなって、サッカー人を飲み込んだ。
あとかたもなく、サッカー観が崩れ去っていく。
ピッチの上では、なんだって起こりうるのだ。
フットボールのもつ多彩な表現とその物語性の前で、人はただ、なす術がない。
サッカーの神話がリアルタイムで更新されていく。
歴史が更新されていくのを、コカ・コーラとポテトチップを食べながら、朝方のテレビで眺めている。
SNSで、遠い友達とコミュニケーションをとる。
すれ違うだけの人たち。
私がブログを更新しているのも、何故なのか。
歴史は作られていく。
神話が紡がれていく瞬間に立ち会う、不思議な感覚。
私はただ、その瞬間を、2014年の夏の空に閉じ込めたいだけなのだ。
オレンジ色に染まった夏の夕暮れの向こう側で、同じ時代を生きる、全世界の人々と共に、最後のキックオフの笛を待っている。
secret well
準決勝、ブラジル対ドイツ
草原を歩いていたら隠れた井戸があって、落ちていく。ずっとずっと、落ちていく。ノルウェイの森だかなんかでそんな描写があった。
サッカーフィールドにも、井戸が隠されているのだ。
全世界何十億人が眺めるリアルタイムのフィールド上にも、誰にも気付かれず、ひっそりと井戸がある。
そして今日、ブラジルが井戸に落ちていった。
(フィールドには井戸だけじゃなく、カルガモの親子も住んでいる。2006年の日本-クロアチア戦でヤナギサワが助けてあげたように)
寝不足と風邪薬で、ぼんやりとテレビを眺めていて、ブラジルが5点とられて、東京は台風8号が引き連れてきた雨雲の下、蒸し暑くて。
日本はとっくに負けているのに、椎名林檎がフレーフレー日本を歌っていた。
ものすごくシュールな世界。
非日常の映像。
ブラジルの少年が泣いている、アナウンサーも泣いている、美女も泣いている。
泣かないでくれ、これは楽しいお祭なのだから。
人生には辛いこともあれば楽しいこともあるのだから。
ブラジルの涙が、地球の裏側の日本へと雨を降らす。
まどろみの向こう側、まもなく、暴動が起こる
やっぱりこれは夢なのだろう
眠たい まどろみのハーフタイム
たぶんこれは夢で、少し仮眠してまた起きて、これからキックオフなのだろう
ブラジルが5失点するわけないのだから
たぶんみんな夢を見ているだけなんだと思う
Ending Brian Eno
日本人とは
戦後、日本はアメリカに学び、欧米に追いつけ追い越せで経済は奇跡の成長をとげた。
1979年、米社会学者エズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版。
そして、80年代後半からのバブル、「山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買える」ほどの狂った夢に浮かれた。計画性もなく遊園地やら不可解な構造物を乱立し、数十億でゴッホやルノアールの絵画を買いあさり、海外からのヒンシュクをかった。
成功にあぐらをかき、世界から学ぶことを止め、まっとうな経営をしなくなった日本企業は、国際競争力を失っていくこととなる。
夢が泡と化し、失われた20年が始まる。
そんな90年代初頭、Jリーグが誕生した。
あの熱狂は、今考えると、バブルの残り火の最後の輝きのようなものだったのかもしれない。
資本力のある日系企業は、今のカタールのように海外タレントプレーヤーをどんどん引っ張ってきた。
トヨタは3億円でリネカーを、住友金属はジーコを、日産はディアスを、古河電気はリトバルスキーを。
プレミアでは、マンチェスターユナイテッドの胸にはSHARPが、アーセナルはJVCが、エバートンはNECだった。
欧米南米に追いつけ追い越せで、挫折を繰り返しながらも、日本サッカーはどんどん強くなっていった。
その成長は、かつての日本経済のように「奇跡の成長」と呼ばれた。
W杯に出場し、決勝トーナメントに進み、そしていつしか「W杯優勝」を公言するようになった。
岡田監督が戦略的に「ベスト4」を公言していた時、NYTの記者は監督を「詩人」だと形容した。
ベンゲルは、「もし日本が決勝トーナメントに進むことができたなら、日本は君のために東京の真ん中に銅像を建てるべきだ」と発言した。
「W杯優勝」を目指す権利は、もちろん、W杯に出場するすべての選手にある。
ただ、その言葉はどこにもつながらない。
大衆を熱狂させ、感覚を麻痺させ、世論を作り、消費させるために、メディアは耳障りの良い、キャッチーなキーワードを使用する。
「優勝」
「海外組-国内組」
「自分たちのサッカー」
「歴代最強」
「絶対に負けられない(ry 」
そういうことなのか。
もう言葉なんていらないんじゃないか。
日本人は、謙虚さを失った時にいつも失敗する。
アメリカに戦争を挑んだ時も、精神論と思考停止状態の指揮系統のもと、特攻していった。
根拠の無い自信というものも、確かに大切で、それは時に大きな成功をもたらす。
しかし、謙虚さの喪失が、いつしか強欲と傲慢と過信に変わった時、多くの場合、それは悲劇へと繋がる。
日本の歴史がそれを証明している。
サッカーという確率論に支配された繊細なスポーツで、こんな話を持ち出すのは大げさなのかもしれないけれど、
日本代表が、「日本」を「代表」する存在である以上、「日本人」という存在をもう一度謙虚に捉え直すことから始めたほうがいいのではないか。
失われた武士道
コートジボワール戦、まったりと家で見ようとも思っていたが、現在通っている大学の講堂でパブリックビューイングがあり、無料だし、せっかくなのでいってきた。
W杯が歴史である以上、どこでみるかというコンテクストは、大切な要素だ。
この宇宙の中のクソ孤独な地球上の儚い人生の中で、誰かと共に歓喜し、同じ時間と気持ちを共有するという体験は、何にも変えられない、素敵なことだ。
お隣に座っていた、高校生やら色んな人と肩を組み、得点で歓声をあげる。
お祭りにのりたい自分と、そこから距離をとりたい自分がいて、普段は後者が優位だが、まぁこういうのも悪くない。
ただ、あのコールやら馬鹿騒ぎは、少しきつかった。
敗戦後のコールは、いったい誰に向かっての、何の為のものなのだろう。
試合の結果も含めて、虚無感と脱力感に襲われた。
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試合について言及することはないので、「試合周辺」のことについて
試合の開始時間
日曜日の日本時間午前10時キックオフということで、何かとありがたかったわけだが、現地時間では、22:00らしい。
基本的には、第一ラウンドは、13:00、16:00、19:00(場合によっては18:00)スタートにも関わらず、何故日本だけ。
確か、ドイツW杯のときもクロアチア戦の時間が日本の都合に合わせて試合時間が変更されていて、ジーコが苦言を呈していたが、いい加減こういうことはやめたらどうか。
(よくみたら第三戦の時間は同じでした。)
むしろ、最終節のコロンビア戦は16:00キックオフで、もう片方のギリシャ-コートジボワール戦(17:00キックオフ)よりも一時間早い。
むろん、トーナメント進出のライバル2チームはコロンビア-日本の結果次第で戦術を変更できるという面で不利となる。
電通なのか、アディダスやらキリンなのか、NHKなのか、協会なのか、よくわからないが、試合時間を操作することができるのなら、こっちの第三戦のほうをどうにかしてくれ。
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スクランブル交差点のハイタッチに関して_
2002年のチュニジア戦、2010年のデンマーク戦の後のスクランブル交差点は、歓喜と感動で満ちた、素晴らしい祝祭の空間だった。
渋谷という街の、サッカーを巡る新しい文化だった。
それが破壊されてしまったことは、残念だ。
結局、みんな騒ぎたいだけだったのだ。
今回は痴漢の被害も出ている。
侍文化の根付く国の、日本男児として、恥を知れといいたい。
もうあの場に加わることはないだろう。
王国がもたらされる時
天上のお方さま、あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
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彼の地で、W杯が幕を開けた。
3-1でブラジルがクロアチアを下す。
王国は強かった。
睡魔をさっそうとアドレナリンが拭い去り、お祭りの興奮が日常を葬りさる。
本気のぶつかり合いはやっぱり面白い。
しばらく忘れていたけど、サッカーとはこういうものだった。
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さて、この試合の論点の一つは、間違いなく審判である。
開始前から注目を浴びた西村さん。
理想的な試合は、審判を意識しない試合だが、同時に審判も試合の一部である。
それを強烈に意識させられた試合だった。
前半、クロアチアの左、オリッチが走り回っていたサイドでのスローインをめぐり、スコラーリが2度猛抗議していた。
前半は、比較的ブラジルに不利な判定が多かった。
審判との心理戦。
プレーの一瞬一瞬で、見えない情報がめまぐるしく書き換えられていく。
ホームのブーイングや歓声も含め、独特の空気感が醸成され、エントロピーが満ちてゆき。
フレッジのあれは、誤審で、それはクロアチアにとっても西村さんにとっても不運であったが、しかたのないことのような気がする。
起こってしまったことは、起こってしまったことであり、過去形であり、それはもう誰にもどうにもできないことなのだ。
フレッジにはそこまで注目していなかったが、あの狡猾なプレーも含めて、素晴らしかった。
そして、クロアチア、美しい90年代のマンチェスターユナイテッドのような4-4-2。
初戦を落としたチームは突破できないというが、2位通過はかなりありえるのではないか。
刺激的で、黙示録的な開幕戦だった。
W杯という物語を生きる
「あの」ワールドカップが始まるらしい。
全く実感がわかない。
常に時代が先に進んでいく。
自分はそれを、遠く眺め、それを追いかける。
W杯が始まるようだ。
だから、私は、それを受け入れるしかないようだ。
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フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、自身の著書『ポストモダンの条件』(1979)の中で、現代社会を、「大きな物語」が終焉した時代と表現した。
2014年、インターネット革命、スマホの普及、SNSのインフラ化を経て、オタクが現実社会より虚構世界を重視し、別の価値規範をつくりあげ、現代社会は多数の小さな物語が林立した状態になることで条件付けられているよな様相を保っている。
大きな物語が喪失された瞬間のカオスで、私たちは日々の生活を生きる、何にもリンクされない、無意味な生を。
物語は与えられるものではなく、創りだすものであり、自ら繋がりにいくものなのに。
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話は飛んで、AKB48Gの総選挙。
NMBの不信、HKTの躍進(さくらたんと村重のランクイン!!)、AKBの相対的な影響力の低下という実態を目の当たりにして、詳しくは言及しないが、やはりそれは確信に変わった。
人々はコンテンツ自体を享受しているのではない。
その虚構(idolというidea)を支えている、物語りを応援し、そのグループに流れる大きな物語りを支持している。
つまりはこういうことだ。
「人間はストーリーを求めている」
W杯が始まる。
W杯とは、巨大なブランドであり、大きな物語であり、宗教であり、歴史だ。
価値あるものとは、多くの人が価値があると信じるものだ。
人生とは、無意味でちっぽけな「私」の物語りであり、生きるとはその物語りを紡いでいくこと、つまり物語ることではないか。
自ずとそこには、大きな物語りの中に、自分自身を投影したいという欲求が発生する。
そうでなければ、きっと、「私」は、存在の耐えられない軽さに耐えられない。
そして、無意味な私は願う。
W杯という物語りを生きたい。
W杯という物語りを物語りたい。
World Wide Webに結んで、開いて、地球の裏側まで紡いでいきたい、と。
だから、また私は、文字という記号で、行きた証を刻んでみようと思う。
W杯という大きな物語りを。
小さな日本の東京という、場所から。
未来の思い出にリンクする、ささやかな運命への反抗。
盛大な未来への祝福。
4年前の未来が今だ。
まもなく、祝祭の笛が鳴る。
ワールドカップの見る夢