日本人とは
戦後、日本はアメリカに学び、欧米に追いつけ追い越せで経済は奇跡の成長をとげた。
1979年、米社会学者エズラ・ヴォーゲルは『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版。
そして、80年代後半からのバブル、「山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買える」ほどの狂った夢に浮かれた。計画性もなく遊園地やら不可解な構造物を乱立し、数十億でゴッホやルノアールの絵画を買いあさり、海外からのヒンシュクをかった。
成功にあぐらをかき、世界から学ぶことを止め、まっとうな経営をしなくなった日本企業は、国際競争力を失っていくこととなる。
夢が泡と化し、失われた20年が始まる。
そんな90年代初頭、Jリーグが誕生した。
あの熱狂は、今考えると、バブルの残り火の最後の輝きのようなものだったのかもしれない。
資本力のある日系企業は、今のカタールのように海外タレントプレーヤーをどんどん引っ張ってきた。
トヨタは3億円でリネカーを、住友金属はジーコを、日産はディアスを、古河電気はリトバルスキーを。
プレミアでは、マンチェスターユナイテッドの胸にはSHARPが、アーセナルはJVCが、エバートンはNECだった。
欧米南米に追いつけ追い越せで、挫折を繰り返しながらも、日本サッカーはどんどん強くなっていった。
その成長は、かつての日本経済のように「奇跡の成長」と呼ばれた。
W杯に出場し、決勝トーナメントに進み、そしていつしか「W杯優勝」を公言するようになった。
岡田監督が戦略的に「ベスト4」を公言していた時、NYTの記者は監督を「詩人」だと形容した。
ベンゲルは、「もし日本が決勝トーナメントに進むことができたなら、日本は君のために東京の真ん中に銅像を建てるべきだ」と発言した。
「W杯優勝」を目指す権利は、もちろん、W杯に出場するすべての選手にある。
ただ、その言葉はどこにもつながらない。
大衆を熱狂させ、感覚を麻痺させ、世論を作り、消費させるために、メディアは耳障りの良い、キャッチーなキーワードを使用する。
「優勝」
「海外組-国内組」
「自分たちのサッカー」
「歴代最強」
「絶対に負けられない(ry 」
そういうことなのか。
もう言葉なんていらないんじゃないか。
日本人は、謙虚さを失った時にいつも失敗する。
アメリカに戦争を挑んだ時も、精神論と思考停止状態の指揮系統のもと、特攻していった。
根拠の無い自信というものも、確かに大切で、それは時に大きな成功をもたらす。
しかし、謙虚さの喪失が、いつしか強欲と傲慢と過信に変わった時、多くの場合、それは悲劇へと繋がる。
日本の歴史がそれを証明している。
サッカーという確率論に支配された繊細なスポーツで、こんな話を持ち出すのは大げさなのかもしれないけれど、
日本代表が、「日本」を「代表」する存在である以上、「日本人」という存在をもう一度謙虚に捉え直すことから始めたほうがいいのではないか。