サッカー的な散文【footballshoegazer’s blog】

鹿児島ユナイテッドファンです。東京でベンチャー企業を経営しています。サッカーについて、好き勝手に書こうと思います。

W杯という物語を生きる

「あの」ワールドカップが始まるらしい。

全く実感がわかない。

常に時代が先に進んでいく。

自分はそれを、遠く眺め、それを追いかける。

W杯が始まるようだ。

だから、私は、それを受け入れるしかないようだ。

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フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールは、自身の著書『ポストモダンの条件』(1979)の中で、現代社会を、「大きな物語」が終焉した時代と表現した。

2014年、インターネット革命、スマホの普及、SNSのインフラ化を経て、オタクが現実社会より虚構世界を重視し、別の価値規範をつくりあげ、現代社会は多数の小さな物語が林立した状態になることで条件付けられているよな様相を保っている。

大きな物語が喪失された瞬間のカオスで、私たちは日々の生活を生きる、何にもリンクされない、無意味な生を。

物語は与えられるものではなく、創りだすものであり、自ら繋がりにいくものなのに。

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話は飛んで、AKB48Gの総選挙。

NMBの不信、HKTの躍進(さくらたんと村重のランクイン!!)、AKBの相対的な影響力の低下という実態を目の当たりにして、詳しくは言及しないが、やはりそれは確信に変わった。

人々はコンテンツ自体を享受しているのではない。

その虚構(idolというidea)を支えている、物語りを応援し、そのグループに流れる大きな物語りを支持している。

つまりはこういうことだ。

「人間はストーリーを求めている」

W杯が始まる。

W杯とは、巨大なブランドであり、大きな物語であり、宗教であり、歴史だ。

価値あるものとは、多くの人が価値があると信じるものだ。

人生とは、無意味でちっぽけな「私」の物語りであり、生きるとはその物語りを紡いでいくこと、つまり物語ることではないか。

自ずとそこには、大きな物語りの中に、自分自身を投影したいという欲求が発生する。

そうでなければ、きっと、「私」は、存在の耐えられない軽さに耐えられない。

そして、無意味な私は願う。

W杯という物語りを生きたい。

W杯という物語りを物語りたい。

World Wide Webに結んで、開いて、地球の裏側まで紡いでいきたい、と。

だから、また私は、文字という記号で、行きた証を刻んでみようと思う。

W杯という大きな物語りを。

小さな日本の東京という、場所から。

未来の思い出にリンクする、ささやかな運命への反抗。

盛大な未来への祝福。

4年前の未来が今だ。

まもなく、祝祭の笛が鳴る。

ワールドカップの見る夢