すべてをかける時がきた
久しぶりにサッカーの試合をみた。
もっとも、試合前の地震の影響で東急線が遅れてしまい、試合開始には間に合わなかったのだが。
いつしか、大好きだったサッカーを純粋に楽しむことができなくなった。
大人になったということなのか、日々に忙殺されて、情熱を失ってしまったからなのか、自分が今、社会的に宙ぶらりんな存在(一応は学生であるが)であることからくる精神的な不健全性からなのか。
脱サッカー。
サッカーを人生として捉えるのではなく、グローバル社会とインターネットのもたらす超フラットな情報民主化革命における、あくまでも、いちエンターテイメントとして、ビジネスの対象としてのケーススタディとして、捉える。
例えば、ベルギーの競技場の広告について。
ファミリーマート、ヤンマー、DMM.com、三井住友、キリンの看板がフィールドを囲っていたが、費用対効果(マーケティングROI)はどの程度のものなのだろう。
新ユニファームのデザインとコンセプトの両立について。
前の胸の一本線が、発展して、ヒトとヒトを繋いだ円環を描くという素晴らしいアイディア。蛍光ビンクのような袖の赤色。
韓国人は、気にし過ぎではあるが、とはいってもやはり反応を理解した上での意図的であろう、胸の放射線のデザイン。
新しいユニフォームのデザインは好きなのだが、韓国ではあいかわらずバズっているのだろうか。
松木さんが解説者であることのテレビ局へのメリットは何なのだろう。
松木さんという存在の解説者としての商品価値はどの程度であり、どのようなターゲットの視聴者に向けて発信されているのであろう。
そして、松木さんの解説が今日はかなりまっとうだった件。
これは何を意味するのか。
サッカーはサッカーであり、あくまでもサッカーだ。
私は、自分の人生を前に進めるときなのだ。
すべてをかけて、自分の戦いを全うしなければならない。
ロベルトバッジオの言葉を思い出す。
「今日を戦えないものに、明日を語る資格はない」
現実逃避でサッカーをみるのも、もちろん最高だ。
でも、それでは本当の意味で楽しめない。
自分の責任を全うして、初めてまたサッカーを純粋に楽しめるようになるような気がする。
転機だ。
人生から、学び、チャレンジし、トライ&エラーで修正し、成長すること。
簡単なことだ、自分と戦い、そして勝つことだ。
サッカーから離れても、時々サッカーは大切なことを思い出させてくれる。