サッカーを語るということについて [エーコとサッカー]
「なぜサッカーはあれほどまでに観衆を熱狂へと駆り立てるのか?サッカーは単なるゲームではない。それは、日常世界の多様な意味をさまざまなレベルにわたって読み取らせる、記号論的なゲリラ戦の繰り広げられる場なのだ。」 - ウンベルト・エーコ
サッカーを語るということについて。
誰しもが、サッカーについて、語りたくなる。
誰しもとうのは違うか、サッカーファンは、サッカーに熱狂し、やみくもに語りたくなる。
ある種の、自己陶酔状態に身を投じるのだ。
これは、自分がサッカーというスポーツが好きだということを差し引いても、他のスポーツに比して顕著だと感じる。
ロンドンのパブで、おっさんたちが日夜ビール片手にバトったり、会社のランチタイムに「ニワカ」の後輩に対してうんちくをたれたり、インターネットの世界で議論に花を咲かせたり、テレビのニュース番組でコメンテーターが見識を披露したり。
エーコ曰く、「サッカーにおけるアイデンティティというのは「実在」するものでも、経験的なものでもなく、サッカーという文化のカーニバルの内側で互いのアイデンティティを効果的に際立たせる方法」だ。
「サッカーファン」という概念が意味するのは、その自閉的なマニア主義への陶酔のことであり、
自分とは違う趣味と嗜好を持った別の「部族」が自分の周囲に存在することが理解できない、悪しきマニアティスムの空転した冗舌の日常空間への氾濫のこと。
もちろん自分も含めて、という前置きが必要になるが、サッカーを語ることには、ある種の無責任さが付随する。
その先にあるのは、そこまで言い切ってしまえるのかと思うが、「空虚な議論」であると、エーコは言う。
”スポーツトークは、その議論のトピックなるものが「話す人物の力の及ばないところ」にあるがために、その話す人物が現にある権力からの返報を少しも恐れずに「立場を選択し、意見を表明し、解決策を示唆すること」を許す。”
それぞれのファンが、それぞれの立場で、それぞれに無責任に、語り、そこでの倫理やモラルの境界線は、自分が真のファンとしてサポートしていることを示すために、棚上げされる。
そう、サッカーとは、エーコの見識では「記号論的なゲリラ戦の繰り広げられる場」なのだ。
サッカーを語る上で、その謙虚な自覚が必要なのだと感じた。